よしそれ持ってハーグに行こう
そもそも、朝鮮時代は島は済州島まで含めて「流刑の地」。
陸から目で見える島しか認識してなかったって話もあるな。
大体、二つ並んだ島を独島はないわ。
もしかしたら、その独島とやらも于山島のことを言ってるんじゃね?
義昭は一目見て気づく。この料理は朝倉の象徴。信長は、料理を通して朝倉攻めの許可を取ろうとしている。
ならば、こんな料理に箸なぞつけられん。ましては「美味い」なぞ口が裂けても言えはせぬ。
しかし、出された料理は浮世離れして美味しそう。
幻惑されるように箸を取り口に運ぶ。
「美味い・・・」
思わず漏れた一言で、信長は言質を取った。
「朝倉攻めの許しがでたぞ!」
信長は即座にいくさの支度を始める。
政治における料理とはこういうことだ。
トランプは独島エビを食し、独島は韓国領土だと認めた。
やれやれ、僕は論破した。
韓国が竹島盗ったのは1953年くらいの李ラインからだからね?ガチで忘れてそう
「韓国の管轄区域」とする記述が見られることもありました。
しかし、外交交渉を司る米国務省の公式な決定や、
国際条約(サンフランシスコ平和条約)における米国の最終的な一貫した見解は、
「竹島は日本領」という認識に立っています、ラスク文書他。
韓国の李承晩が、日本へ侵攻するために全韓国軍を韓国南部に移動させた。
その空きを突いて北朝鮮が南進したのが朝鮮戦争の始まり
1945年10月:南朝鮮に大韓民国臨時政府、臨時大統領に李承晩が就任。
1946年9月:李承晩による反米運動が全土で盛んになる。進駐米軍は早く出て行けと撤退を要求。
1948年8月:大韓民国の建国。李承晩大統領は米国から1949年6月までに米軍完全撤退を勝ち取る。
1948年8月:李承晩大統領、「対馬島返還を日本に要求」 軍事武力行使を示し日本に叩き付ける。
1948年9月:反米運動の中で追い出されるように米軍撤退作業開始〜10ヶ月間で完全撤収。
1949年1月:李承晩は政府樹立直後の新年記者会見で日本に対馬島返還を要求。軍事侵攻をも表明。
1949年2月:韓国軍は一斉に対馬から40kmの釜山港に集結開始(南部へ韓国軍大移動)
1949年3月:韓国軍は釜山で揚陸訓練開始。韓国にいたアメリカ陸軍第24軍が対馬上陸の訓練で、
日本侵攻の演習と知り、釜山の軍事演習にマッカーサーとトルーマン大統領が激怒。
1949年4月:上記理由で、激怒した米英が国連安保理で韓国の国連加盟容認から一転して、韓国加盟を否決。
1949年5月:上記理由で、マッカーサーが韓国李政権への軍事物資援助を全て停止。
1949年6月:アメリカ第24軍本体が本国に撤退 韓国には国連監視団500名のみ残し引き上げ。
韓国は防衛上の後ろ盾を失う。
1950年1月:米国務長官が“アチソンライン”を示し米軍は韓国に関与しない、韓国を切り捨てると宣言。
1950年1月:名ばかりの米韓軍事援助相互協定を調印。韓国側は軍事支援強化を求めるが米国は拒否。
理由は韓国の北進を防ぎ、韓国の日本への侵攻防止、ソ連との約束で韓国に兵器を拒否した。
1950年6月:再び、李承晩が"対馬島と北九州"への軍事侵攻に韓国全軍を南部へ移動指示、釜山港に集結開始。
1950年6月10日:北朝鮮大機動演習を開始。全師団が南国境地帯で演習移動しているが、米国は韓国に知らせず。
1950年6月17日:韓国軍が釜山にぞくぞく集結。全軍が釜山港に集結。対馬と北九州侵攻準備で北国境はスカスカ。
1950年6月:スターリンが米国に何度も問い合わせ。米軍はソ連と交戦はしない。朝鮮半島は米国の守備範囲でない。
米軍は存在しない。アチソン国務長官が正式外交ルートで「朝鮮半島は米国の守備範囲でない」と声明を出す。
1950年6月22日:国境がスカスカとなり北朝鮮軍最高司令官金日成が全面的南進作戦命令を発する。
密漁じゃん
韓国政府は竹島を韓国領に含めるよう要求しましたが、
米国政府(ラスク国務次官補)はこれを明確に拒否し、
竹島を日本領として扱いました。
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米国極東空軍司令部(FEAF)の調査報告書の一部=東北アジア歴史財団提供//ハンギョレ新聞社
独島(ドクト)が韓国の領土であることを確認した米軍の機密文書が初めて公開された。
東北アジア歴史財団(パク・チヒャン理事長)は7日、米国政府に保管されていた独島に関する未公開記録を新たに発掘したことを
明らかにした。1948年の独島爆撃事件を調査した米国極東空軍司令部(FEAF)は、機密文書に「独島は韓国の一部として明確に確立」
されたと明記している。光復直後に、独島が韓国領であることを米国当局がはっきりと認識していたことを示している。
今回の資料は、聖公会大学東アジア研究所のチョン・カプセン研究教授が米国立公文書記録管理局(NARA)で確認し
収集した222ページにのぼる文書で、最近財団に寄贈されたもの。朝鮮戦争前後の時期を主に研究してきたチョン教授は、
1948年から1952年にかけて米軍によって作成された1060の文書保管箱を調査していた際にこの資料を発見した。
資料には米軍当局の文書だけでなく、韓国側から提出された独島領有権に関する文書も存在し、史料的価値が高いと評価される。
チョン教授は「独島爆撃という単一の事件について、極東司令部、極東空軍、第1航空師団などの6つの部隊の調査や報告が交差する
文書群となっており、価値が高い」と述べた。
最も注目すべき資料は、1948年6月24日にFEAFが作成した「独島爆撃事件報告書(Report of Bombing of Liancourt Rocks)」だ。
この報告書は「1947年9月にリアンクール岩(Liancourt Rocks)が韓国の一部であることが明確に確立されたにもかかわらず…」と
記している。「リアンクール」とは1849年に独島を発見したフランスの捕鯨船の名で、「リアンクール岩」は独島を指す。
この報告書は、同年6月8日に米空軍の演習爆撃によって独島で操業中の14人の漁民が死亡し、多数の負傷者が出た事件の経緯
についての調査の最終報告書とみられる。報告書には、当時、爆撃訓練を行うために「各爆撃演習場」を使用するには、
半月前に在韓米軍司令官(USAFIK)に通知しなければならなかった、とも記されている。独島を「韓国の領土」と考えていたため、
韓国管轄当局への事前通知義務を明示したと解釈できる、と東北アジア歴史財団は説明している。
同財団のホン・ソングン独島室長は「今回の資料は日本側の『強引な主張』への反論の要となる資料」だとして、独島をまるで
日本の領土であるかのように主張した1949年のシーボルドの提案、1951年のラスク書簡などは一時的に変質、歪曲された結果に
過ぎないことを客観的に証明する資料」だと述べた。
一方、米軍の報告書とともに発見された1946年の文書も初めて公開される資料であり、価値が高い。鬱陵島(ウルルンド)の
行政を担っていた鬱陵島司が慶尚北道知事に送った文書は、光復以降の独島に関する状況に言及した最初の公文書とみなされる。
公文書には、独島が鬱陵島に属していることを確認するとともに、日本政府と交渉して独島が鬱陵島に属していることを公表するよう
中央軍政庁に求める内容が含まれている。
チョ・イルチュン先任記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
登録:2026-07-08 01:30
https://japan.hani.co.kr/arti/culture/56637.html